[2000年3月28日] 『ほんじつのめし』の逆襲
菓子パン。(朝)
天丼。(昼)
天丼。(夕)

●なやめる子羊の脳はうまいのか? なやまなかった子羊とどっちがうまいのか? しらない。どっちもくったことがないからである。
●というわけで、とつぜんですが『めしくった作文』です。たとえば昼どきにむしょうにカレーライスがたべたくなって、カツカレーの大盛りなんかをそとでたべて家にかえると夕飯がカレーライスである。あるいはおひるにむしょうに天丼がたべたくなってそれをたべて家にかえると夕飯が天丼である。それならまだしもおひるにヒマラヤドジョウのプイプイ焼きをたべて家にかえるとやっぱりヒマラヤドジョウのプイプイ焼きが用意されている。これが有名な「親子丼理論」です。たいていのひとにこういう経験はあるかとおもいます。そうして目の前がマックラになってしまった経験があるとおもう。すくなくともわたしはマックラになる。なにしろわたしのじんせいの三大おたのしみといえば昼ごはんと晩ごはんとふとんなので、このうちのふたつがカチあってしまうと、なんていうか、がっかりして生きる希望がうせてしまう。そのままふとんに直行してしまいたくなる。
●でも、だからといって文句をいえないのがまた親子丼理論でもあります。「なんだよおまえ、ショウガ焼きかよ、おれ、ヒルもショウガ焼き定食だったんだよ」とか「なんだよおかあさん、ハンバーグかよ、おれ、ヒルもハンバーグくっちゃったよ」とかは、ぜったいにいってはいけない。文句をいわれた「おまえ」や「おかあさん」はどんな顔をするかわからないけど、こころのなかではぜったいに「このガキャいっぺんしめころしたろか」と関西弁でつぶやいてるからです。でも、文句はいえなくても、がっかりするものはがっかりする。しかもそれはヒンパンにおこる。家族というのはたいてい、おなじようなものをたべて生活しているので、ふとカレーライスがたべたくなるときとか、ふとマーボー豆腐がたべたくなるときというのは一致してしまうものなのです。たべたくなるサイクルが一致してしまうのです。たとえば会社でおとうさんがトンカツをたべたくなったとき、家ではおかあさんもまたトンカツがたべたくなっているのです。それでおとうさんが会社のちかくの定食屋でおひるにトンカツをたべおえるころ、夕飯のおかずはトンカツにしようとおかあさんは決心する。親子丼理論です。夫婦茶碗理論といってもいい。どっちだってかまわない。ともかく理論です。
●どうやってこの不幸な理論からのがれるか。これは全人類につきつけられた最大の課題のひとつである、といいたいのはわたしだけかもしれません。でも、ほんとうにわたしにとってこれは、すごく重要で切実な問題です。どうすればオカズがカチあわないようになるんだろう。そんなの簡単だよ、あさでかけるときに、晩ごはんのおかずをリクエストしておけばいいんだよ、というひとがいるかもしれない。でも、そんなことをしてしまったらじんせいのおたのしみが半減してしまいます。ほかのひとはどうだかしらないけど、わたしは晩ごはんのおかずがたのしみで、それだけをたのしみにその日の午後をくらしているモノなので(午前のたのしみはひるごはん)、あらかじめそれがわかっている生活なんてたえられない。その日を生き抜く気力がなくなってしまう。だって誕生日やクリスマスのプレゼントだってそうでしょう? 箱をあけるまでがたのしみなのであって、中身がわかってたらうれしさもはんぶんじゃない? そういうものでしょう? だからリクエストは却下。でも、しかし、これを却下してしまうと、あとほかにこれといった対策がないんだよね。こまったなあ。
●というわけで、悩めるわたしの脳みそはうまいのか? 悩まないひとよりうまいのか? ためしにだれか、たべてみる? おひるにたべれば? ぜったいに晩ごはんのおかずにはなってないよ。ぽいうぽいう。