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喫茶店で皿洗いのアルバイトをしたときの話。店員はおれをふくめて三人いて、皿を洗うおれのよこにコーヒーをいれる男がいた。もうひとりは年配の女主人で、給仕をしていた。あるとき、女主人が使いおえたダスターを手におれのところにやってきて、これを洗ってしぼるように、といった。おれはいわれるままにそれを洗ってしぼり、彼女にわたした。彼女はそれを手にとって、しぼりかたが足りないのでもっとよくしぼりなさい、とおれに返した。おれはそれをかなりきつめにしぼり、もういちど彼女にわたした。彼女は、まだしぼりたりない、と首をよこにふり、おれに返してきた。おれは驚いたが、すこし腹もたてた。それで怒りをこめてそれをしぼり、こんどこそ大丈夫だろうと信じて彼女にダスターをわたした。彼女はそれをにぎり、もうすこしだね、とほほえみながら、またおれにそれを返した。たしかにくちはほほえんでいたが、目はわらっていなかった。おれはあきれた。けれどさからってもしかたがない。おれは、渾身の力をこめてそれをしぼり直した。ダスターにはもうしたたり落ちる水分は残っていなかったが、それでも力いっぱいしぼった。しぼりおえたとき、おれの手の熱気のせいでダスターからは湯気がのぼっているようにみえた。それをわたすと、うん、よくしぼれてる、と彼女は満足して、それを手にテーブルをふきにいってしまった。そして、それ以後おれは彼女にダスターを洗うようにいわれたときはかならず限界までそれをしぼるようになり、つき返されることはなかった。
へんな話だが、それでおれはダスターのしぼり加減というのを学んだし、また、彼女のその件にかんする教えかたは、最上だったとおもっている。まじめに話してるのでどうかすこしだけまにうけてほしいのだが、ひとになにかを教えてそれをしんから理解させるというのはむずかしい。だが、それ以上にむずかしいのは、その学んだことがらをいつまでも記憶してもらえるように教えることだ。だれかになにかを教えるときの主題は、どれほど学ぶ側の印象に残せるかという点につきるとおれはかんがえる。その場で理解できてもすぐに忘れられてしまうような教えかたをするのは、なにも教えないのとあまりかわらない。それよりも、たとえ時間や労力を必要としても、学ぶ側の印象に残って忘れられない教えかたをするべきだ。できたら、いきているかぎり忘れられない教えかたをするべきだ。
そういう教えかたというものがある。
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