とり  ダンス天国

ナ〜、ナナナナ〜、ナナナナ〜ナナナ〜〜、唄いオドリながらあらわれるわしがぽいうである。あまりしられていないことだが、わしはオドるのはかなりすきである。そもそもわしはどういうわけだか音楽というものにはなはだ弱くって、というか、リズムというものに弱くって、すぐに陶酔してしまう。なにか規則的な音をきくと、おもわずいれこんでしまうのだ。たとえば電車のなかでいれこんでいる。なぜなら電車というのは走るとき、規則的にステコ〜ンステコ〜ンと音をたてるからだ。これがいれこまずにいられようか。ついふらふらとわしは規則的にきざまれるそのリズムにひきこまれてゆく。そのたび、いかんいかんとあたまをさゆうにふって目をさましてる。なにしろ電車のなかといえばやはりよそさまもおられるわけで、そういう場所でキキとして電車の振動の音にあわせてフィーっなどとかけ声よろしくオドリくるってしまうのは、これはなんの罪もないみなさまをいたずらに不安な気もちにおとしいれてしまうのではあるまいかという配慮がはたらいて、かろうじてその陶酔を両手両足のかすかな振動ていどにおさえている。ところがこれがひとりきりでじぶんの部屋で音楽を聴いていたりするときは、もはやハドメがきかない。さよう、なにをかくそうこのぽいう、まいにちがダンス天国なのであロッパ。ソウルトレインなのでござローラ。だいたいわしは音楽がない生活というのは考えられないたちで、自室にいるときはつねになにか音楽を流しっぱなしにしているのだが、きちんとチューニングされたドラムが腰をいれてハタかれているのをフト耳にとめて聴きいってしまったりすると、もはやそこまでである。はっと気づくとおれは部屋のまんなかで汗みずくになってオドリくるっていたりする。アンケートなんかで「スポーツはなにをしていますか?」という項目をみかけることがあるが、そういうときわしはまよわずは迷わず「おどり」とこたえることにしている。じっさい、わしはスキーもスノボーもテニスもサーフィンも野球もジョギングもスポーツクラブもなあんもやらかさないが、そのぶんの運動不足はすべてこれ、オドリによって解消しているとジフしている。しかもオドリというのは、食事や睡眠や性交とおんなじで、どんなにオドってもオドリ飽きるということがない。どんなにオドリくたびれようとも、またしばらくするとついふらふらとオドってしまうものなのだ。さらにわしには節操というものがなくて、ケルト民謡だろうと幼稚園のおゆうぎだろうとなんでもござれというたいへんてがるな体質である。そこにリズムとなにがしかの和音や旋律があればもはやオドらずにいられない。そういう体質なのだ。そのようにしてオドリにささげたわが半生、よそさまがいる場所ではまだしも自制につとめてはいるものの、しかしよそさまにもいろいろあって、これが気ごころのしれたともだちやガールフレンドといっしょにすごしているときなどは、やはりこころのなかにどうしても甘えがあるのだろう、つい油断してしまう。しかもそういうときにかぎってだいすきな曲をかけていたりする。ああ、この唄すきなんだよなあ。なにげなく聴きいっているつもりが、フト気づいてみればわしは部屋のまんなかにたち、だいたんなステップでもってオドリくるっているというわけである。いいわすれていたが、もちろんシラフである。おまけにじつはこれもあまりしられていないことだが、どうもおれはオドリがへたなのだ。それはもう、はなはだヘタなようなのだ。ハタからみると、オドっているようにはみえないらしい。海中のワカメのごとく、ただ手足をぐにゃぐにゃとブキミにうごめかしているようにみえるらしい。そういう現場を目撃したわがゆうじんたちのとった態度には、おおまかにいってみっつある。
1.あぜんとして見守る。
2.わらいころげる。
3.「そのオドリ、ヘンっ」と指摘して怒る。
いずれにしてもすでにわしは音楽によってあっちがわの世界へいざなわれてしまっているので、そうかんたんには社会復帰はできない。音楽がとぎれでもしないかぎり、まずわれにはかえらない。親類一同アキレはて、友人はわらいころげ、むこうではイヌがわんわんほえまわり、さらにそのむこうではパトカーのサイレンがなりひびく。そういう状況になってさえわれにはかえらない。なにもかもほったらかしてオドリくるっている。ガールフレンドさえほったらかしてオドリくるう。そのようにして愛しあうふたりのあいだにすこしずつキレツがしょうじてゆくのだ。もしも、もしもわしといっしょになってオドってくれるガールフレンドにであえていたら、ひとりでオドるよりはふたりでオドるほうが楽しいにきまっているので、それはこの世のダンス天国というべきなのだが、悲しいことにそういうことはかつてない。せんじつも街のなかを女の子とフラフラあるいていたら、なぜだかわしはとうとつにどうしてもオクラホマ・ミキサーがオドりたくなってしまい、ふつふつとオドりたくなってしまい、ややはやめにステップをふみつつよこをあるく女の子の手をとったのだが、そのとき彼女はおれの手をはらいのけてくれた。その手のはらいのけかたというのが、本気でいやがっているのがありありとあらわれていて、わしはいたく傷ついたのだ。それにしてもどうしてわしばかりこんなにオドるあほうなのだろう。どうして生きながらダンスに葬られてしまってるんだろう。いったいどうしてこのわしだけが、こうもまいにちオドリくらしているのだろう。いかなるアドレナリンのいたずらが、このわしのじんせいにふりかかっているというのか。そのような疑問がわしのノウリをかすめたある日、新聞の悩み相談コーナーでこういう相談をみかけたのだった。

「うちの夫は、無口でいつも怒ったような顔をしています。ところが瞬間的にオドリだす癖があるのです。そのオドリは昔のゴーゴーのようでもあり、フラダンスのようでもあり、インドネシアのケチャダンスのようでもあり、歌は日本古来の民謡風です。無視すると、「スチャラカスチャラカ」と歌いながら目の前に迫ってきます。思春期の娘は悲鳴をあげて逃げだし、息子はあいまいな笑いを浮べています。幼稚園の娘だけ、喜んで拍手をしていますが、お父さんは寂しいのでしょうか。

東京都 主人のオドリにあきあきしている妻 (朝日新聞)

砂漠でオアシスをみつけたときの気もちというのは、こういうものであろうか。世のなかにはわしのほかにも、スチャラカスチャラカとオドりくらしてるひとがいる。わしはひとりぼっちじゃない。ひとりぼっちじゃなかったのだ。わしはうれしさのあまり、いつもより三割増しでステップをふみながらこの記事を切り取り、スクラップ帳にはりつけた。だからこうしてここにみんなに紹介できる。だけど安心したのもつかのま、しみじみとこの悩みを読んでみると、どうやらこのお父さんも、そのオドリ癖によって家族に迫害されているらしい。なんとなくわしの将来をみるようで、そうかんがえるとこれはやはり悲しくなってくる。どうしてこの家族のかたがたは、お父さんといっしょにオドってさしあげないのだろう。家族ってそんなもの? そんなんで家族っていえるの? わしだったら、もう、だれがなんといおうとぜったいにいっしょにオドってあげるのに。まいにちひとりきりでオドるこのお父さんがわしはフビンでなならない。そういうわけなので、わしは、できたらオドリのすきな女の子と結婚したいとおもっている。もしもわしといっしょになってオドリくるってくれる女の子にであえたなら、いますぐにでも結婚をもうしこみたい。そして、まいにちオドリくるう明るい家庭をきずきたいです。ぽいう。

[03,02,2000]