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→もうずいぶんまえなんだけど、ボブ・ディランとザ・バンドのライブのCDをかけていたら、いっしょにいた女の子に「ねえ、どうしてこのひとは泣きながら歌ってるの」とたずねられた。おれはびっくりして、それから感心した。ちょうど「女の如く」がはじまったところだった。とつぜん曲名をいわれてもしらないひとはしらないけど、そういう歌がある。だれも痛みなんて感じない、今夜僕は雨の中に立っている。そういう歌がある。彼女のいうとおり、それはまるで、雨の中で泣いてるみたいな歌だ。
→ボブ・ディランはふしぎな歌い手だ。1960年代、つまりかれが十代の頃、もっとも深みのある歌いかたをしていた。すべてを諦観してるみたいな歌いかたをしていた。老人だってなかなかあんなふうには歌えるものじゃない。なにもかも超越したような歌いかただ。そこにはまだ雨は降っておらず、そのかわり、つめたくてかわいた風が吹いている。それが年を重ねるにつれて、雨がぽつぽつと降りはじめ、それはどしゃ降りになってゆく。かれの歌はすこしずつ歌でなくなってゆく。ベトナム戦争が終わるころのライブなんかは、もう、歌ではなくなってしまってる。「女の如く」がそうであるみたいに。おれが最初にボブ・ディランを聴いたのはちょうどその時期で、そこからすこしずつ時代をさかのぼってボブ・ディランのレコードを集めた。ふしぎだったね。時代をさかのぼるにつれ、ボブ・ディランは若くなっているはずなのに、その歌は深みをましていく。いまだにふしぎにおもう。
→インターネットの日記めぐりをしていると、書き手のさびしさがひしひしとつたわってくる文章にでくわすときがある。おちこんでいることがつたわってくる。まるで「女の如く」みたいに。「だれも僕の気もちなんてわかってくれない、今夜僕はこんなにまでひとりぼっちだ」と雨のなかで泣いているあの歌みたいな文章というのがある。なんとかしてやれたらなあとおもう。あったこともないのに。インターネットで文章を読んだだけなのに。だけど、おれにはどうすることもできない。なぜなら、それはけっきょく、そのひとの問題だからだ。だれもおれの気もちをわかってくれないのとおなじように、おれはだれの気もちもわからない。つめたいようだけど、やっぱりそうおもう。それなのに、そのひとの気もちをわかったかのようにふるまってなぐさめるのは、偽善だといわれたってしかたないのかもしれない。そんなふうにかんがえて、たしかにだれかがおちこんでいるときには、もちろんはげましたりすることはあるんだけど、どうしようもない矛盾をかんじてしまう。おれなんかがはげましたところで、けっきょくはその場かぎりのなぐさめにしかすぎないんじゃないか? その場かぎりのとりつくろいなら、いっそだまってみていたほうがましなんじゃないか? そんなふうにおもえてしまう。しかもそれは、たぶんあたってる。それでもおれに、ほかにどうしようがあるだろう。
→おれたちはだれも、どうにも雨のなかにたちつくさねばならないときがある。おれたちはだれかのために傘をさしてやることはできる。だけどだれにもその雨をやませることはできない。
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