とり  それゆけチェインソー

わたしは昨夜、なにかよい夢をみていたはずである。なぜならわたしは今朝、たいへん爽快なめざめをしたからである。めをさましたとき、わたしのからだにはみずみずしいちからがみなぎっていた。めざめがよい日は、その爽快な気ぶんを終日持続できることがおおい。そういうひとはおおい。爽快な気ぶんで一日やりすごせるひとがおおければ、おのずと世の中もまるくおさまる。このように爽快なめざめというのはじんるいの平和のために不可欠なものだ。だからわたしはたとえば、じぶんが眠っているときに電話のベルがなっても、なるべくでないようにしている。電話のベルで目をさましてしまうのもいやだし、それで起こされるなんて、最悪だとかんがえるからだ。ときどきそういうことがある。わたしが、食事のつぎに愛してやまない行為である睡眠をしているさいちゅうに、電話のベルがなりだすことがある。そういうときにかぎってベルはしつこくなりつづける。ぜったいでないぞ、ぜったいにでてやるもんかとかんがえながら、こころのなかではなぜかそのベルの音を数えている。それが二十回を数えると、わたしは、なにかよくないことが起きたのかもしれないと不安になっておきあがり、しぶしぶ受話器をとりあげる。話をきく。
「もしもしい? ねてたあ? ごめんねえ? あのねえ、ちょっとききたいんだけどお、いい? あのねえ、カラダの固いひととお、や〜らかいひととお、ふたりでフクガ上体ソラシをやったらあ、どっちが有利なのお? ねえ、どっちい?」
わたしがアイスホッケーのゴールキーパーの顔マスクをつけ、電動式ノコギリを手にしてマチにくりだしたくなるのは、こういうときだ。

だが、電話のベルは、まだましなのだということをわたしはせんだってしった。わたしの家の右と左には、5メートルと離れていないところによそさまの家がある。そこではもちろん、よそ様が生活をいとなんでいらっしゃる。ところがそのかたほうにはまったくアタマのクソ悪いクソガキがいて、いや失礼やりなおし、ところがそのかたほうには、あまり頭脳のよろしからざるお子だちがいらっしゃられて、なにをやらかしたのかいつもいつもいつもいつもいつも叱られてはびいびい泣きわめいておられる。ありていにいって、近所メイワクなお子だちである。そして、その不吉な音がとつぜんかなでられはじめたのは、せんだっての日曜日のことだった。どういうつもりかこのお子だちが、ハーモニカの練習をはじめられたのだ。お子だちが練習していたものかどうか、確証はないのだが、まさかご両親がハーモニカの練習をするとはおもえないので、おそらくお子だちであろう。朝の十時ごろのことである。このくそさむい季節に開けはなたれた窓からはそのハーモニカの音がもれ聞こえてくる。お子だちはドレミハソラシドの練習をなすっておいだった。

「ド〜レ〜ミ〜ハ〜ソ〜ラ〜ピ〜」

どうやらお子だちは、シの音は吸うのだということをごぞんじないようであった。ハーモニカにおいては、ドラミハソラシドは、基本的には吐く吸う吐く吸うを繰りかえせばよいのだが、ゆいつのれいがいがあって、それはラとシである。そこはたてつづけに吸う。ところがこのお子だちは、それをしらないらしかった。それで、なんどもなんどもシの音でつまずいては最初からやりなおすことになる。

「ド〜レ〜ミ〜ハ〜ソ〜ラ〜ピ〜」
「ド〜レ〜ミ〜ハ〜ソ〜ラ〜ピ〜」
「ド〜レ〜ミ〜ハ〜ソ〜ラ〜ピ〜」
「ド〜レ〜ミ〜ハ〜ソ〜ラ〜ピ〜」

わたしは睡眠していた。夢うつつの平和な日曜日の午前であった。

「ド〜レ〜ミ〜ハ〜ソ〜ラ〜ピ〜」
「ド〜レ〜ミ〜ハ〜ソ〜ラ〜ピ〜」
「ド〜レ〜ミ〜ハ〜ソ〜ラ〜ピ〜」
「ド〜レ〜ミ〜ハ〜ソ〜ラ〜ピ〜」

お子だちはきわめてアタマがわるかった。なんどつまずいても学習しなかった。シは吸うのだなどということは、おもいもよらないことであるらしかった。

「ド〜レ〜ミ〜ハ〜ソ〜ラ〜ピ〜」
「ド〜レ〜ミ〜ハ〜ソ〜ラ〜ピ〜」
「ド〜レ〜ミ〜ハ〜ソ〜ラ〜ピ〜」
「ド〜レ〜ミ〜ハ〜ソ〜ラ〜ピ〜」

わたしは平静をたもとうとつとめていた。ハーモニカの音を無視しようとつとめていた。あのここちよい眠りの世界へもういちど戻ろうと努力していた。しかし、わたしは無意識のうちにその回数を数えていた。数えてはいけないとおもいつつも、どうしても数えてしまう。それは戦いであった。おたがい顔もあわせず言葉もかわさぬが、しょうしんしょうめいの戦いであった。敵の攻勢はやすまるところがなかった。呪いのハーモニカの音はいっこうにやむ気配がなかった。

「ド〜レ〜ミ〜ハ〜ソ〜ラ〜ピ〜」
「ド〜レ〜ミ〜ハ〜ソ〜ラ〜ピ〜」
「ド〜レ〜ミ〜ハ〜ソ〜ラ〜ピ〜」
「ド〜レ〜ミ〜ハ〜ソ〜ラ〜ピ〜」

それが百回をこえたとき、わたしはじぶんの敗北をみとめ、ベッドからおきあがった。衣服をきがえ、朝食もとらぬまま家をでた。アイスホッケーのゴールキーパーの顔マスクと電動式ノコギリを購入するためである。ぽいう。

[14,02,2000]