とり  スナムグリ

→トシヨリがすきだ。などととつぜんわけのわからんことをいいだすと、いきなりよんでるひとにひかれてしまいそうだけど、じっさいおれはトシヨリがすきだ。それはもしかしたらおれの生い立ちと関係があるのかもしれない。おれは祖父母によって長じたにんげんだ。幼稚園にあがるまでの時間のおおくを祖父母と、近所の子と、半ダースばかりのチャボとすごした。おかげでおれはいまだにトシヨリと子供とニワトリがすきである。
→とうじおれの祖母は、どういうわけかこのおれをわらわせることにナミナミならない執念をもやしていて、おれを笑わせるためならおもいつくかぎりのありとあらゆる作戦手段を講じるひとで、だからおれは祖母といっしょにいるあいだじゅうつねに、ハラの皮がよじれるおもいをさせられつづけていた。げんざいのおれのユーモアのセンスのほとんどは、この祖母から学んだものだといってもいい。もしもこれからおれがここでする作文で、だれかを笑わせることができたなら、どうか祖母に感謝してください。そのユーモアの99パーセントまでは祖母から学んだものだからだ。残りの1パーセントは加藤茶から学んだ。その祖母はすでにこの世にいないが、親戚にはまだまだしつこくこの世にしがみついているトシヨリが大量にいる。トシヨリたちは、なぜだかみんな例外なく、おもしろいことをいうことができる。
→いぜん母がたの姉たちとその配偶者が中心となって宴会をした。親戚はみな百姓だ。みなさん、百姓の宴会ってしってますか? おれのしるかぎり、こんなすごい宴会はない。これほど壮絶なまでに抱腹絶倒な宴会はほかにない。それはもう「おれはこのまま笑いころされてしまうのか?」と生命の危険すらかんじるほどである。そういうわけだから、百姓の宴会をしらないかたは、ゼヒいちど体験してもらいたいとおもう。ああ、だけどたぶん、言葉がわからないから、そううまくはいかないのかもしれない。どこの土地でも農業のひとたちの言葉は強烈だし、その微妙なニュアンスまではなかなかおぼえられないし。さっきも話したとおり、おれは祖父母にそだてられたにんげんだ。だからこの土地の言葉はとくいだ。方言がとくいであることのよい点は、トシヨリと話ができる、この一点につきる。トシヨリのいうことがわかる、トシヨリのとばしたギャグが理解できる、この一点につきる。その親戚の宴会の日、おれは「シモチョブのバア」とよばれるバア様とずっと話しこんでいたのだが、最初から最後までハラの皮がよじれるおもいをさせられた。シモチョブのバアはタダモノではない。このバアもまた、ほかのバアとおなじで、スキあらば他人を笑わせようと、残りすくなくなったじんせいの情熱のすべてをその一事にささげているバアである。だから、おれのような小僧は、ほんとうに赤子の手をひねるように笑いころがされてしまう。話そのもののおかしさと、それを話すシモチョブのバアのたくみな間合いや表情やしぐさに、しまいにはヒイヒイとのたうちまわされているじぶんに気づく。おかげでそのときどんな話をきかされたものだか、おれにはほとんど記憶がない。ただひとつおぼえているのは、スナムグリというあたらしい言葉をおぼえたことだ。シモチョブのバアはいった。
「オレなんかんめ、オンナだがらいんだ、ションベンしっとぎもパンツおろさいんだがら」
「ほげ」(おれのアイヅチ)
「んだげどオドゴたいへんだ、モモシキ、ハー二まいもおろしてない、よういでねど、これはよういでねど、もれっちゃど」
「んだ」(おれのアイヅチ)
「ほーんでモモシキおろしてチンポコへっつがんでもない、チンポコハー、スナムグリでつかめねがんな、よういでねよういでね、としとっちゃメドもめっかんねしねがんない」
→というわけでどうやらスナムグリというのは、チンポコがさむさなどでちぢこまり、フグリ方面にうずくまってしまっている状態をさすものならしいです。方言はふかい。

●注「シモチョブのバア」について:シモチョブのバアというのはおれにとっては叔母にあたる。厳密にいえばおれが「バア」とよぶスジではないのだが、それはこのさい関係ない。おれたちはそれがだれであろうと、そのひとに孫があれば「ジイ」「バア」とよぶ。年齢も血縁も関係ない。ジイ、バアの資格は、そのひとに孫があるかないかにつきる。たとえばおれの両親はまだ孫がないので親戚から愛称でよばれる。父は「ジロサ」、母は「フミ」である。これでおれに子ができれば、とたんにおれの両親もジイ、バアの仲間いりとなる。だれからもそうよばれるようになる。そういうことになっている。そういうことだから親戚じゅうにジイとバアがいりみだれていて、ややこしいことこのうえないが、せんじつの宴会のようなさいは屋号やすんでいる地名をつかって区分することになっている。この作文にでてきたシモチョブのバアの「シモチョブ」とは地名である。どうでもいいけどこんなふうに「である」を多用すると、なんだかアタマのいいことをかいてるみたいでかっこいいのである。であるである。

[11,10,1999]