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丸一日おれはめしをくっていなかった。空腹の夜おそくに駅の構内をあるいていると、すれちがうオヤジがみんなよっぱらいで、その数があんまりおおいのにうんざりした。ホームのベンチに腰をおろしておれは、よっぱらいの数のかんじょうをはじめた。ひとり、ふたり、さんにん、よったり。すぐにやめた。よっぱらいは無数にいるようにみえたからだ。でろでろになっているやつも大量にいた。怪奇ゲロ男もいた。それからおれはおじさんに聞かされた話をおもいだした。「いいかマサオくん、中国の街にはよっぱらいはいない。なぜかわかるか?」おじさんが中国旅行にでかけて帰ってきた直後のことだ。わかりません、とこたえると「いいかマサオくん、中国の酒はな、飲んだら立てないっ。」飲んだら立てない、だから中国の街によっぱらいはいない、と、おじさんはそういってるらしかった。いっそこいつらにも足腰がたたなくなるような酒を飲ませてやればいいんだ、とおれは駅のベンチで考えた。そうすれば恐怖ゲロマシーンになって駅のあちこちにゲロをはきちらすやつもいない。むこうで柱に頭をこすりつけながらゲロを吐いているやつがみえた。げろげろげろげろげろ、音が聞こえてきた。ネクタイにゲロがかからないようにという配慮だろう、必殺ゲロ男はネクタイをしめたままそれを背中にまわしていた。なんてシュミのわるいネクタイだろう、おれはおもった。けれど、ネクタイをよごさないようにしたつもりでも、靴はゲロまみれになっていた。電車がきた。乗った。こんでいた。いつものように総武電車はよっぱらいに呪われていた。おれはもうおじさんのことは考えず、もっと楽しいことを考えることにした。まずよっぱらいのアゴの品定めをはじめた。どのアゴがいちばんもろそうか、あたりに並んでいるよっぱらいのアゴのひとつひとつを点検した。アゴの弱い人間はボクサーにむかない。なったとしても、ふつう、大成はしない。首がほそく、おもながで、とがったアゴがそうだ。まず顔のりんかくをおれはたしかめる。まるい顔やしかくい顔をしたやつはそこで除外する。それから首のふとさをみる。細いやつだけを選び残す。それから残ったやつの顔をながめ、アゴの選定にとりかかる。最終候補をたんねんにしぼりこみ、そうしておれは、とうとう決定した。その場にいあわせた男たちのなかで、もっとも弱そうなアゴの男を選出した。座席の端でへたりこみ、うえをむいて眠りこけている男だった。それからおれは四人の偉大なチャンピオンについて考えた。ロベルトデュラン、マービンハグラー、シュガーレイレナード、トーマスハーンズ、この四人の傑出したボクサーが現役時代をともにしたという拳闘史上の奇跡、しかもその時代におれもまた呼吸していたことには、おれは神さまに感謝しなくちゃならない。この四人で誰が最強だったのかを比較するのはあんまり意味がない。それぞれ偉大さのタイプがちがうからだ。それでもおれたちはそういうことをこのんでする。おれが考える最強のチャンピオンはハグラーだ。闘志、頭脳、スピード、パワー、完成度、それらの総合力をおれは買う。ハグラーがムガビを葬った試合のストレートをおもいうかべる。あのストレートが座席の端でだらしなく眠っているあの男の貧弱なアゴをうちぬくところを想像する。電車が終点の駅に着く。降りる。おれの頭のなかはもうボクシングでいっぱいだ。そのボクシングとはスポーツではない。おれはすれちがう男たちのアゴのひとつひとつを点検するのをやめることができない。頑強なアゴ、貧弱なアゴ、まるいアゴ、かくばったアゴ、アゴアゴアゴ、階段にさしかかる。のぼる。降りてくる男がいる、でろでろによっぱらっている。足もとがさだまらない。ぶざまなさだまらない足どりでうらうらと階段をおりてくる。その男のアゴをみておれは息をのんだ。完璧なグラスジョーだった。まったく、もうしぶんのない、みるからにもろいアゴだった。しかもグラスジョーはまったく無防備だった。アゴをさらけだしたまま、よたつきながら階段をおりてくるのだ。このアゴをうちぬいてください、そういっているみたいに。どうやらもはやガードをあげる気力さえ残っていないようだった。これに対しておれはまだ気力もスタミナもじゅうぶんに残していた。あまりの空腹にたいする怒りから、かえって闘志は充満していた。駅の階段でおれはファイターになっていた。ロベルトデュラン、パナマの英雄、ガードのうえからうちぬいて相手をダウンさせる強烈な石の拳、そのフックをおれはおもった。無防備にガードをさげたまま相手にあゆみより、狙いをさだめて腰の回転とともにあのアゴをうちぬく右。横からきれいにアゴをうちぬくと、衝撃で頭は斜めに振れ、頭蓋骨の中で脳は振動し、中枢がマヒする。一発で人間を倒してしまうそのパンチをおもった。あるいはあのアゴでは骨が砕けるかもしれない。そのアゴがふらふら階段をおりてくる。おれはフックで頭をいっぱいにさせながら階段をのぼる。とつぜん男はよたよたとななめに進路を変え、おれのほうにむかってきた。よいのせいでまっすぐにおりられないのだ。ばかやろう、おれはつぶやいた。おれのほうにくるんじゃない、おれは、もう、自制がきかない。そのアゴをさらしたままおれのほうにくるんじゃない、おれはそのアゴをうちぬく誘惑をおさえることができない、くるな、おれは祈る、だが、グラスジョーには聞こえない。そうして、おれたちがすれちがう瞬間、おれのからだは、おれの意図していない動きをした。がしゅ、嫌な音がして、それからおれは天井をみ、つぎに階段をまぢかにみていた。おれは、あまりにうわの空でいい気になって階段をのぼっていたせいで、こけたのだった。グラスジョーはその場にしばらくとまり、でんぐりがえったおれをみおろしていた。それからなにもいわずまたちどり足で階段を降りていった。まるでニュートラルコーナーにもどるかのように。男がみえなくなった。立った。とおくでわらう声がきこえた。
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